2017年6月12日月曜日

ディエン・ビエン・フーの旅 その3

6月5日
1.ラオス国境の温泉へ
 今日は朝の8時半にホテルを出て、温泉にいく。これは全然予想をしていなかった場所だ。
見事な水田に水牛が遊ぶ
ベトナム語の名前は、Suoi Nuoc Nong Hua Peという。日本語ではフアペー温泉というべきだろう。フアペーはディエンビエンフーから25キロ、ラオス国境から2キロしかない。フアペー温泉への道はタイ族の村を走っていく。まるで日本と同じ田園風景が広がる。美しい水田である。
 途中村のなかに停まると巨木があったのでその下で記念撮影。民家は皆タイ族の特徴である一階が吹き抜けになっている。田には水牛がたくさんおり、のんびりと草をはんでいる。

2.フアペー温泉
 山の中に入って、こんな狭い道をと思うような道を抜けるとフアペー温泉である。斜面に青い色の本館とプール、そして美しい蓮の池が広がっている。美しい蓮の池でしばし写真を撮る。立派な写真である。

温泉の庭には睡蓮の花が咲き乱れる
それからプールに戻る。プールに水を入れるホースが延びており、さわると温かい。これが温泉のお湯である。お湯は2キロ先から引いているというが、まだ熱いわけだ。結構、プールサイドに軍人の人がいる。ズン君によるとこの2キロ先に国境があり、国境を警備する軍隊がここを運営しているという。驚いた。軍隊運営の温泉である。ベトナムでは軍隊もお金を稼がないといけないので結構会社を運営している。これもその一つらしい。
温泉のプールにて
流れ込むお湯は熱い
プールに行く。水が濁っておりあまり泳ぐ気がしなかったが、プールに注ぐお湯を見たら、これがもともと多少濁っているので汚れているわけではなさそうだ。段々泳ぎたくなってきた。水着を持っていなかったが、たまたまランニング用のショートパンツを持っていたのでこれで泳ぐ。ワコールの上等のパンツでこれなら水着とあまり変わらない。
 温泉のホースからは勢いよくお湯が出ている。触るととても熱い。50度以上はあるだろう。温めているとは思えない。
ズン君と子供たちと泳ぐ
ズン君と子供たちも泳ぎを楽しんでいる。1時間ほども泳いだら疲れたので、皆で上がって着替える。他のお客さんも12時になって引き上げる。ベトナムの人はお昼は休むのが普通である。
 ホテルに戻って軽い食事を取ろうということで帰ったが、出てきた食事は食べきれないほどのお粥と肉で皆で驚く。ズン君たちは今日の午後はお客さんとの相談があるので、子供たちは部屋で休む。我々は自分たちで歩きますということにした。

3.A1の丘
A1の丘の説明図
午後はA1の丘を見たいと思った。そのあとできれば戦没者墓地、そしてカストリ司令官の地下壕をみることにした。タクシーで回ってもらう。
A1の表示
まずはA1の丘である。A1の丘は当初からこの戦闘のなかで一番の要衝ということがベトミン側にもフランス側にも認識されていた。それだけにここを巡る戦いは厳しいもので、ベトミン側には2000人の死者、フランス側には800人の死者があったという。この小さな丘のために3000人近い人たちが死んだのである。ディエンビエンフーの戦いはこの丘をベトミン軍が占領したときに終わった。
 A1という名前はベトナム側の呼び名である。フランス側はElianeという女性の名前である。(フランス側の陣地の名前はカストリ司令官の過去の女性のなまえだったというが。)
 A1は大きな丘ではないが、きわめて急な登りの丘である。今は大きな桐の木が生えており、かつての鉄条網で覆われ、草木などないような写真のイメージとは全く違う。ところが上る途中からおかしな深い溝が頂上に向かって延びているのが見えてきた。これがベトナム軍の塹壕である。深さは2メートルぐらいだろうか。幅はせいぜい70センチメートルぐらいであろう。それが頂上に向かってギザギザと曲がりながら掘られている。今は壁はコンクリートで固められているが、かつては土の壁だったろうと思われる。

塹壕が保存されている
鉄条網はほとんどが取り除かれているが、ごく一部が残されている。ここでは三重の鉄条網による防護線が見られる。頂上付近にA1の白い文字による表示がある。
鳳凰木の花が誠に美しい
頂上には見事な鳳凰木が花を付けていた。巨大な鳳凰木が真っ赤な花を付けている。多くの兵隊たちが命を失った丘である。その鳳凰木の足下にも塹壕が掘られている。
鳳凰木の下にも塹壕
ベトミン軍は3月13日に最初に北側の陣地であるGabrielleとAnne-Marieから攻撃を開始した。北側での戦いは凄惨を極めた。そしてElianeの最後の戦いの日、5月7日に終わる。実際には一番南方に離れてあったIsabella陣地は5月13日まで戦っていたようである。(これはもう少し調べる必要があるが。)
フランス軍の本部跡
本部内の人形
残された戦車
丘の頂上にはフランス軍の本部地下壕が残っている。中は狭い。そしてフランス軍の人形が置かれている。そして戦車も置かれている。これはフランス軍の放置した戦車である。
塹壕の幅は本当に狭い
フランス軍の壕の上に立って戦場を眺めると緑に囲まれた実に美しい景色である。ただそこに奇妙な塹壕が掘られている。塹壕はおそらく頂上からの銃撃を避けるためだろう、ジグザグに掘られている。戦いの場面が目に浮かぶようだ。また頂上のすぐ下には巨大な爆弾の爆発跡が残されている。今はコンクリートで固められている。
 この小さな丘を巡って3千人の兵士が死んだ。歴史はおかしなものだ。こうやってその場に立っていると意味のない殺し合いにも思える。もちろんこれで西洋の帝国主義が崩れ、多くの途上国の独立に結びついた大きな意義のある戦いであったのだが。
 丘を降りると麓にはさび付いた多くの武器の残骸が展示されている。

4.戦没者墓地

戦没者墓地の門
戦没者墓地の祭壇
A1丘陵の次は戦没者墓地を訪れた。戦没者墓地はA1丘陵の隣になる。美しい門があり、その奥に厳粛な雰囲気の墓地がある。
 運転手君が線香を買って付いて来てくれる。戦没者記念碑の前で祈り半分の線香を捧げる。残りの線香は記念碑のまえに特に設けられた4人の英霊に捧げる。
英霊が眠る
背後には無数の墓石が
数えられないほどの墓だが、もちろんこれ以上の人たちが死んでいるはずである。
大砲を運び上げる
フランス軍の降伏
墓地の外側にはディエンビエンフーの戦いに纏わる話がレリーフで語られている。ザップ将軍やホーチミンはもちろん、名のない農民が食料を運ぶのを手伝い、あるいは兵隊が大砲を山道を運ぶ場面。そしてフランス軍の降伏も描かれている。

5.カストリ将軍の地下壕
カストリ将軍の地下壕
川沿いにカストリ将軍の地下壕があるとホテルでもらった地図に書かれていたので運転手君に行ってもらう。大きな地下壕である。カストリ将軍は名家の出身であり、馬術の名人であったが、指揮官としての資質があったのかは疑わしい。地下壕のなかに入ることもできる。なかは広く、作戦会議室などもある。
105ミリ砲
地下壕の前の草地の反対側に多くの銃器が展示されている。ベトミン軍の主要な武器であった105ミリ砲も数機が展示されている。フランス軍の銃器と思われるもっと大きな砲も展示されているが、多くの縦断の跡が痛々しい。
フランス軍の大砲
こうして6日の午後は終わり、そのあと市場を回ってホテルに帰った。

6.村での食事
女性の起業家との夕食会
夕飯はズン君が近くの村でライスパウダーを作っている起業家の招待があったということで、一緒に行くことになった。この企業家は女性で、ご主人と二人でこの会社を立ち上げたがご主人がなくなり今は一人で会社を経営している。
沢山の料理が並ぶ
9人の女性が社員で村でとれる米を元にライスミルクのもとになるライスパウダーを出荷している。今は損益トントンで規模を大きくしたいが、ファイナンスがなかなか付かないとのこと。きれいなパッケージの商品を出しているとのこと。ただ規模を広げるには1億円規模の投資が必要とのこと。食事はすばらしくおいしかった。あとでズン君が言っていたのは、女性の起業家はなかなかファイナンスを得にくい。ベトナムでは難しいとのこと。


2017年6月11日日曜日

ディエン・ビエン・フーの旅 その2

2017年6月4日 月曜日

1.朝の散歩
ディエンビエンフーの街
朝5時半頃に起きて市場まで歩く。走る積もりだったが、かなり暑いし、昨日の疲れが抜けていない。結局2キロメートルを歩いたような次第。市場では6時頃だったが、肉売り場を除くとまだ準備中という感じだった。市場は相当の規模だ。
朝の肉売り場 整然としている
ホテルの様子も観測する。今回泊まったのはムオンタンホテルというディエンビエンフーでは一番立派なホテルだ。ホテルの前にタヒチにありそうな椰子の葉で葺いたような屋根を持つ建物とプールがある。ガンさんによるとこの建物はベトナムの伝統建築とは何の関係もないようだ。玄関脇には大きな盆栽がおかれている。盆栽はこの国では非常に人気がある。ラダットの「愛の谷」にも盆栽園があったことを思い出す。 
 市場から帰り、朝食となる。8時半頃に出発ということで、とりあえず家内と二人で7時には食事をとる。朝食はなかなか良い。フォーを作って貰い食べる。そのうちにズン君一家も降りてきて一緒に食事。ナムアイン君が走り回っていたずらをしている。元気な子だ。

2.ベトミン軍の参謀本部

山村の水田
どこに行くのかもよく分からず、車に乗り込み、約40キロの道のり。大変に険しい山道を登っていく。昨日、記念館でベトナム軍は急峻な山を思い軍備や兵糧を人力で運んだと説明し貰ったことを思い出す。ひょっとしてこの大変な山を越えたのかと思いついた。でも不可能だろう。しかし山道を登り切って尾根道を暫くいったところに兵隊たちが大砲を引き上げている大きな記念碑が見えた。
大砲を運ぶ記念碑
この山を登り、そして下ったのである。信じられない。フランス軍がこの山を越えてはベトナム軍が来ないと計算していたというのはその通りだろうと思う。誰がこんな山の、しかも当時は道すらなかったような山を2.5トンもある大砲を人力で運ぶと想像できるだろう。
タイ族の伝統的な高床

 沿道はタイ族の住む場所である。尾根を越えると次第に水田が増える。日本の山村風景によく似ている。段々に耕された水田である。それも次第に広い盆地に出て緑の水田が見事に広がっている。懐かしい景色である。家は高床の家である。

参謀本部の入り口
ジャングルを抜ける道
いよいよ目的地に着いたようだ。ここは当時のベトミン軍の参謀本部だった。入り口には駐車場があり、数台のバスや車が停まっており、十軒ほどの土産や食堂がある。ここから階段を上り、細い道をジャングルのなかに入っていく。巨木が茂る中を道は延々と続く。そのうち茅葺き屋根の小屋が見えてくる。ここは通信将校が働いた場で、地下壕も作られている。
通信将校の勤務場所



通信将校の寝所
美しい水田のある農村風景も途中に見える。やがて大きなディエンビエンフーの参謀本部の石碑がある。ここで皆で記念写真を撮る。
参謀本部の石碑
さらに歩いていくと、やがて少し大きな茅葺き屋根の家がある。これがザップ将軍の居所である。なかは2つの大きな部屋があり、ザップ将軍の有名な写真を撮った場所であろうと思う。家内もここで記念撮影。
ザップ将軍の居室
地下壕
地下壕内部の会議机
ザップ将軍の居所の脇に参謀本部の地下壕入り口がある。これは非常に長いトンネルである。途中、作戦本部であったろう長い会議机(竹製)や通信のためのスペースなどがある。
 長い地下壕を抜けるとそこが担当者の毎日の引継場所となった小屋がある。ここから先はまだあるのかもしれないが、折り返すことにして、またトンネルを帰る。
明るい少数民族の観光客

3.沿道の様子
 トンネルを抜けたところで一休みをしているとたくさんの人たちがにぎやかにやってきた。女性たちは少数民族の服装である。手を振って写真を撮らせてもらう。こうやって撮った写真をあとで眺めるととてもきれいな服である。
皆で売り込み
帰りの道を歩くと道のところどころで観光客を相手に物売りがある。家内が頭に巻く伝統的な布を売っている女性に値段を聞いたら、周りの売り子の女性たちが皆集まってきて、自分のものを買わないかと大変な騒ぎになった。これが写真である。ガンさんも手伝って最終的には適当な値段で買ったようだが、まあにぎやかだった。値段を6万ドンに値切ったという。決して殺気だってはいない、別に誰のが売れようと皆まあそれでよいという感じで終わったのでホッとする。
ウコン
道の脇にあまり見慣れない植物が植えられている。これは何だろうとガンさんに聞くと「ウコン」だという。これがウコンか。初めて見ました。
 家内は古銭を買っている。インドシナ銀行の古い硬貨を売っている。ただ結構偽物もあるようで、家内が買ったものが本物かは分からないが。
 
4.ホーパンコアン湖

 
ディエンビエンフーはこの山の向こう
参謀本部のあとは、ホーパンコアン湖を訪れた。ここはタイ族とコーム族の村の大きな人工湖である。ここではモーターボートに乗って湖の景観を楽しむことが出来た。大きな吊り橋が掛かっており、その向こうからはディエンビエンフーに向かう方向に急峻な山々が広がっている。これをベトミン軍が越えたのである。
大砲を運び上げる兵隊の記念碑
ホーパンコアン湖のあとはまた山を越えてディエンビエンフーに戻る。途中にベトミン軍が大砲を引き上げている様子が彫刻になっている。この山々がベトナムにとっては非常に大事な場所であることを思い出させる。
ワイルドピッグの料理1
ワイルドピッグの料理2

5.ワイルドピッグの夕食
 ホテルに2時頃に戻るとガンさんがホテルで昼食をアレンジしてくれる。この時間はホテル以外はやっていないとのこと。この日はもう疲れたので皆で昼寝をする。夕飯はワイルドピッグの店に行く。ワイルドピッグとはイノシシではなく、ジャングルのなかで飼われた豚のことを言うらしい。自然の餌を食べて育つので健康な肉が食べられるという。いろいろな料理が並ぶ。確かにうまかった。

ディエン・ビエン・フーの旅 その1

(6月3日の記録)
1.ダナンへの道のり
 ダナンの家を早朝の5時半に出てハノイ行きの7時半発の飛行機に乗った。さすがに朝早い飛行機なので満員と言うことはなかった。ハノイの空港に8時半には付いて国内線でもう一度チェックインする。これはどうもディエンビエンフーとハノイはVASCOという別の飛行機会社で飛ばしているためだ。
 ハノイの国内線ロビーの2階にはバーガーキングがあり、ここが空いていたので大きなバーガーを食べる。しばらくはベトナムの食事になるので、すこし違う物を食べておきたい。ベトナム食は好きだが、さすがに毎日続くとすこし違う物が欲しい。バーガーキングを食べていると、今回一緒に旅するズン君たちがやって来た。ズン君とは15年前から一緒に仕事をした仲である。その間、彼はガンさんという女性と結婚してお子さんも二人。去年は日本にも来てくれた。今回の旅行は彼の奥さんがアレンジしてくれている。ズン君はベトナム人の起業家育成活動をしており、奥さんは少数民族の農産物の品質向上のNPOで働いている。
 11時の飛行機なのでまだかなりの時間がある。ズン君たちはラウンジを使えるようで、僕らも追加の費用を払って僕らも使える様にしてもらう。ラウンジで1時間半ほど時を過ごす。
 時間が来てディエンビエンフー行きの飛行機に乗る。小型のATR72というプロペラ機で翼が機体の上に付いており、エンジンが翼の下にある。だから眺めは良い。

2.ディエンビエンフーに着く
ハノイからのプロペラ機
ディエンビエンフーに飛ぶこと1時間、ディエンビエンフーの飛行場に着く。この飛行場もフランスとの戦争の激戦地である。もともとは日本軍が作った飛行場だと聞いたことがある。戦争というのはおかしなもので、どうしてここに飛行場を作ったのか、その経済性はなどと考えると不思議である。戦争は経済合理性を越えてしまったものだろう。
可愛いターンテーブル
飛行場からホテルまではタクシーで15分くらい。街の第一印象はラオスのビエンチャンのようだと思った。もちろん寺院は全然違うが、どこか街が川沿いに伸びているせいかもしれない。
 途中、小高い丘に長い階段が付いた記念碑が目に入る。かなりの急な階段がある。(あとでズン君の娘のマイアイさんが数えたら295段あったとのこと)。その前を車は回って西に向かう。車の右側には立派な建物が並ぶ。これは美しい通りだ。州政府の建物などとのこと。
 1キロほど走ったところにモンタンホテルがある。この街で一番大きなホテルである。着いたのは午後2時を過ぎていたので、ホテルで昼食をとる。食事のあと部屋で休む。4時頃から出かけますという。日本人的には長い休みを取ることが意外だったが、あとでよく分かった。暑すぎるのだ。日がすこしでも傾くまで外に出るのは無理なのだ。
 
3.戦勝博物館
戦勝博物館
部屋に戻ってのんびりし、4時に出発する。まずは戦勝博物館である。ここにはまずディエンビエンフー全体の戦場にくまなく掘られていたベトナム軍の塹壕とフランスの防衛線が分かるパノラマが置かれた模型があり、ここのスクリーンに戦争の一部始終を英語で説明するビデオが流された。正直音響があまり良くないので言葉はよく聞き取れなかったが、映像とパノラマの矢印が光るので、戦場のなかのどこで何が起こったのかの想像は十分に付く。
戦場の塹壕と防衛線
戦争のあとはベトナム軍に勤務しながら休日にはボランティアでここのガイドをしている女性が展示を案内してくれる。これはガンさんの計らいである。ベトナム語の説明をガンさんが翻訳してくれる。
ベトナムの英雄 ザップ将軍
予め多少の予習はして来たが、展示を聞きながら、フランス軍がベトナム軍が多くの兵器や食料を運べるとは予想せず、空輸による輸送力と重火器の優勢を考えてこのディエンビエンフーを決戦の場所に選んだこと、そしてベトナム軍が不可能と思われた輸送を実行したことが改めて理解できた。105ミリ砲は2.5トンぐらいの重さがある。これを急な山道を人力だけで運ぶ。食料もハノイなどから一人で50キロ運ぶがハノイからの500キロを運ぶ間に運ぶ人の食料になってしまうと計算されていた。ところがベトナム側は、一日茶碗一杯の米しか食べなくても運ぶ。大砲は100人以上の人間が縄で一斉に引いて何センチか進め、そのあとに車止めを差すことで急峻な山を越える。
 さらに兵隊だけではなく、周りの農民などが支援をして、秘密裏のうちに多くの武器や食料をディエンビエンフーに集めていたということだ。
 大変に丁寧な説明でかなり疲れたがディエンビエンフーの歴史をよく学ぶコトが出来た。この博物館の出口で感想を書くように依頼されてみち江と僕は英語で感想を書かせて貰った。

4.戦勝記念碑
戦勝記念碑への階段
博物館の見学を終えて、それからゆっくりと大通りを西に向かって歩く。博物館の前に瀟洒な建物が建っていたが、このときは何だか分からず、ただ通り過ぎる。実はここにも大変な遺跡があったのだが。
戦勝記念碑

 20分ほど歩くと最初に見えた小高い丘の上にある先勝記念碑を見上げる場所までやって来た。長い急な階段が記念碑まで続いている。これは急な階段である。晴天で強い太陽が照っており、34度ぐらいとかなり暑い、汗をかきかき登り切る。娘のマイアインさんは全部で295段あったと話している。戦勝記念碑は兵隊たちが旗を掲げている。おそらく最後のA1ヒルを奪還したときの姿だろうが、あまりに大きいので真下に行くと実は目に入らない。
戦勝記念碑から西を見る
何よりもディエンビエンフーの景色が素晴らしい。多くのベトナム人も登りに来ている。日も傾いて風も気持ちよい、記念碑の西側の駐車場からタクシーに乗ってホテルに向かう。ホテルでは大きな宴会をやっており、演歌のような歌がよく聞こえる。
鶏の丸焼き

5.夕食の鳥料理
旨いソバ
今夜の夕食はタクシーで出かけた鳥料理の店である。店頭に数羽の鳥の丸焼きがおかれており、その肉とソバを食べるうまい。大満足で、疲れているせいか、9時過ぎには寝てしまった。