2017年6月18日日曜日

親日から「知日」、そして「好日」へ ー 日本経済新聞の記事

友人から以下の日経の記事を読みましたかというメールをいただいた。うっかり見落としていた。そこでお礼も含めてお返事を書いた。確かに大事なことと思うので、ここに載せておきたい。

親日から「知日」、そして「好日」へ ー 日本経済新聞の記事

 日経はこちらでも電子版で読んでいるのですが、たまたまディンビエンフーへの旅行中で見落としていました。この記事に書かれているのは現地に住むと共感するところです。
 記事には触れておられませんが、日本の企業の存在感は非常に大きく、私の友人にもダイキンやLIXILで働いてがんばっているベトナム人がおります。ビンコムという大きなスーパーには日本の家庭用品が日本語表記のまま特設コーナーで売られていますし、最近は日本の会社が運営する100円ショップが出ています。ただ100円ショップではなく、150円ぐらいです。
 インスタントラーメンはエースコックが50%のシェアを持っていますし、味の素の存在感も大きいです。ホンダやトヨタは言うまでもありません。
 お米は木徳神糧が当地で作っているお米が高いですが、よく売れています。先日、ハノイでは1個600円の青森のリンゴが売られていました。
 ベトナムの購買力は急速に上がっており、これからも成長を続けると思われます。若い起業家がどんどん育っている感じがします。 途上国と見下すのでなく、本当にパートナーとしてお付き合いする気持が大事だろうと考えています。

森純一

2017年6月13日火曜日

ディエン・ビエン・フーの旅 その4

6月6日
1.タイ族の村を訪ねる
美しい装飾のある伝統建築
 今朝は少数民族であるタイ族の村を訪れることだ。先日、先勝記念館の説明をしてくれた軍隊の女性が好意で村に連れて行ってくれることになった。ディエンビエンフーから1時間ほどの距離。深い山のなかに入っていく。途中は例によってまるで日本の田園風景のような景色が広がる。そして谷間に入っていく。谷を15分ほど上ったところに村がある。タイ族の伝統的な建築の1階が吹き抜け、あるいは風のとおる竹の壁になった建物が並んでいる。
 村長さんの奥さんと思しき女性が出てきて挨拶をしてくれる。
機織りの女性
 建物の1階には機織り機が置かれている。ここで女性が伝統的な機を織っている。タイ族のパターンは菱形の模様が特色である。たくさんの織物がビニール袋に入っており、見せてくれる。
 大変に美しい色彩の織物だ。自然の素材を使った立派なものは150万ドン、化繊を染めて作ったものは100万ドンである。これ一枚を仕上げるのに一人で1ヶ月ぐらいは掛かるのだろう。そう思うと貴重な織物である。
これを買いました
村の人と記念撮影
家内は入念に見て2枚の織物を買った。もともとは、タイ族の女性の頭に巻く布である。タイ族の女性は大きな髷を頭の上に結っている。これを覆い隠すように布を巻くのである。幅が30センチメートルぐらいで長さが1メートル20センチの布である。家内に言わせるとこれはテーブルクロスとして装飾的に使えるという。なるほどと思う。ここでの値段は決して安くはない。ハノイの街で買うのと変わらないが、ここで買うことに意義がある。私は値引き交渉はしないのが信条である。
川魚を割いて中に詰め物をし、焼いている
 村長さんの家の庭も見せてもらった。立派な庭である。庭では大きな豚を飼っている。またガチョウも放し飼いにしている。さらに庭には大きなマンゴーの木があり、実が落ちてくるのを拾っている。
 村の多くの家で機織りをしている。多くの家に機織り機が置かれている。

巨大なマンゴーの木、実が一杯
村を見終わって村の出口で運転手が村で作った魚籠(びく)をくれた。昨日、彼にあげた僅かのチップのお礼のようだ。とても綺麗な形をした魚籠である。
 
川岸の巨石

2.リゾートを訪れる
 今回の訪問の最後の場所として、空港のそばに出来た新しいリゾートを見に行った。高大なリゾートパークのなかに沢山の木造建築が立っており、一回の吹き抜けに巨木から作ったテーブルがたくさん並んでいる。一つ一つのテーブルは6メートルX3メートルぐらいの大きさあり、樹齢が700年ぐらいのものもある。巨大な木である。
 ズン君はこのリゾートが気に入らないようだ。エコを売り物にしながら、なぜこんな巨木を切らねばならないのかという、もっともな意見である。ガンさんはここも宿泊の候補に入れていたが、あまり評判が良くないので止めたという。何となく同感である。

 ここから空港に出てハノイ行きの飛行機に乗る。ディエンビエンフーの4日間はこれで終わった。本当に素晴らしい4日間だった。

2017年6月12日月曜日

ディエン・ビエン・フーの旅 その3

6月5日
1.ラオス国境の温泉へ
 今日は朝の8時半にホテルを出て、温泉にいく。これは全然予想をしていなかった場所だ。
見事な水田に水牛が遊ぶ
ベトナム語の名前は、Suoi Nuoc Nong Hua Peという。日本語ではフアペー温泉というべきだろう。フアペーはディエンビエンフーから25キロ、ラオス国境から2キロしかない。フアペー温泉への道はタイ族の村を走っていく。まるで日本と同じ田園風景が広がる。美しい水田である。
 途中村のなかに停まると巨木があったのでその下で記念撮影。民家は皆タイ族の特徴である一階が吹き抜けになっている。田には水牛がたくさんおり、のんびりと草をはんでいる。

2.フアペー温泉
 山の中に入って、こんな狭い道をと思うような道を抜けるとフアペー温泉である。斜面に青い色の本館とプール、そして美しい蓮の池が広がっている。美しい蓮の池でしばし写真を撮る。立派な写真である。

温泉の庭には睡蓮の花が咲き乱れる
それからプールに戻る。プールに水を入れるホースが延びており、さわると温かい。これが温泉のお湯である。お湯は2キロ先から引いているというが、まだ熱いわけだ。結構、プールサイドに軍人の人がいる。ズン君によるとこの2キロ先に国境があり、国境を警備する軍隊がここを運営しているという。驚いた。軍隊運営の温泉である。ベトナムでは軍隊もお金を稼がないといけないので結構会社を運営している。これもその一つらしい。
温泉のプールにて
流れ込むお湯は熱い
プールに行く。水が濁っておりあまり泳ぐ気がしなかったが、プールに注ぐお湯を見たら、これがもともと多少濁っているので汚れているわけではなさそうだ。段々泳ぎたくなってきた。水着を持っていなかったが、たまたまランニング用のショートパンツを持っていたのでこれで泳ぐ。ワコールの上等のパンツでこれなら水着とあまり変わらない。
 温泉のホースからは勢いよくお湯が出ている。触るととても熱い。50度以上はあるだろう。温めているとは思えない。
ズン君と子供たちと泳ぐ
ズン君と子供たちも泳ぎを楽しんでいる。1時間ほども泳いだら疲れたので、皆で上がって着替える。他のお客さんも12時になって引き上げる。ベトナムの人はお昼は休むのが普通である。
 ホテルに戻って軽い食事を取ろうということで帰ったが、出てきた食事は食べきれないほどのお粥と肉で皆で驚く。ズン君たちは今日の午後はお客さんとの相談があるので、子供たちは部屋で休む。我々は自分たちで歩きますということにした。

3.A1の丘
A1の丘の説明図
午後はA1の丘を見たいと思った。そのあとできれば戦没者墓地、そしてカストリ司令官の地下壕をみることにした。タクシーで回ってもらう。
A1の表示
まずはA1の丘である。A1の丘は当初からこの戦闘のなかで一番の要衝ということがベトミン側にもフランス側にも認識されていた。それだけにここを巡る戦いは厳しいもので、ベトミン側には2000人の死者、フランス側には800人の死者があったという。この小さな丘のために3000人近い人たちが死んだのである。ディエンビエンフーの戦いはこの丘をベトミン軍が占領したときに終わった。
 A1という名前はベトナム側の呼び名である。フランス側はElianeという女性の名前である。(フランス側の陣地の名前はカストリ司令官の過去の女性のなまえだったというが。)
 A1は大きな丘ではないが、きわめて急な登りの丘である。今は大きな桐の木が生えており、かつての鉄条網で覆われ、草木などないような写真のイメージとは全く違う。ところが上る途中からおかしな深い溝が頂上に向かって延びているのが見えてきた。これがベトナム軍の塹壕である。深さは2メートルぐらいだろうか。幅はせいぜい70センチメートルぐらいであろう。それが頂上に向かってギザギザと曲がりながら掘られている。今は壁はコンクリートで固められているが、かつては土の壁だったろうと思われる。

塹壕が保存されている
鉄条網はほとんどが取り除かれているが、ごく一部が残されている。ここでは三重の鉄条網による防護線が見られる。頂上付近にA1の白い文字による表示がある。
鳳凰木の花が誠に美しい
頂上には見事な鳳凰木が花を付けていた。巨大な鳳凰木が真っ赤な花を付けている。多くの兵隊たちが命を失った丘である。その鳳凰木の足下にも塹壕が掘られている。
鳳凰木の下にも塹壕
ベトミン軍は3月13日に最初に北側の陣地であるGabrielleとAnne-Marieから攻撃を開始した。北側での戦いは凄惨を極めた。そしてElianeの最後の戦いの日、5月7日に終わる。実際には一番南方に離れてあったIsabella陣地は5月13日まで戦っていたようである。(これはもう少し調べる必要があるが。)
フランス軍の本部跡
本部内の人形
残された戦車
丘の頂上にはフランス軍の本部地下壕が残っている。中は狭い。そしてフランス軍の人形が置かれている。そして戦車も置かれている。これはフランス軍の放置した戦車である。
塹壕の幅は本当に狭い
フランス軍の壕の上に立って戦場を眺めると緑に囲まれた実に美しい景色である。ただそこに奇妙な塹壕が掘られている。塹壕はおそらく頂上からの銃撃を避けるためだろう、ジグザグに掘られている。戦いの場面が目に浮かぶようだ。また頂上のすぐ下には巨大な爆弾の爆発跡が残されている。今はコンクリートで固められている。
 この小さな丘を巡って3千人の兵士が死んだ。歴史はおかしなものだ。こうやってその場に立っていると意味のない殺し合いにも思える。もちろんこれで西洋の帝国主義が崩れ、多くの途上国の独立に結びついた大きな意義のある戦いであったのだが。
 丘を降りると麓にはさび付いた多くの武器の残骸が展示されている。

4.戦没者墓地

戦没者墓地の門
戦没者墓地の祭壇
A1丘陵の次は戦没者墓地を訪れた。戦没者墓地はA1丘陵の隣になる。美しい門があり、その奥に厳粛な雰囲気の墓地がある。
 運転手君が線香を買って付いて来てくれる。戦没者記念碑の前で祈り半分の線香を捧げる。残りの線香は記念碑のまえに特に設けられた4人の英霊に捧げる。
英霊が眠る
背後には無数の墓石が
数えられないほどの墓だが、もちろんこれ以上の人たちが死んでいるはずである。
大砲を運び上げる
フランス軍の降伏
墓地の外側にはディエンビエンフーの戦いに纏わる話がレリーフで語られている。ザップ将軍やホーチミンはもちろん、名のない農民が食料を運ぶのを手伝い、あるいは兵隊が大砲を山道を運ぶ場面。そしてフランス軍の降伏も描かれている。

5.カストリ将軍の地下壕
カストリ将軍の地下壕
川沿いにカストリ将軍の地下壕があるとホテルでもらった地図に書かれていたので運転手君に行ってもらう。大きな地下壕である。カストリ将軍は名家の出身であり、馬術の名人であったが、指揮官としての資質があったのかは疑わしい。地下壕のなかに入ることもできる。なかは広く、作戦会議室などもある。
105ミリ砲
地下壕の前の草地の反対側に多くの銃器が展示されている。ベトミン軍の主要な武器であった105ミリ砲も数機が展示されている。フランス軍の銃器と思われるもっと大きな砲も展示されているが、多くの縦断の跡が痛々しい。
フランス軍の大砲
こうして6日の午後は終わり、そのあと市場を回ってホテルに帰った。

6.村での食事
女性の起業家との夕食会
夕飯はズン君が近くの村でライスパウダーを作っている起業家の招待があったということで、一緒に行くことになった。この企業家は女性で、ご主人と二人でこの会社を立ち上げたがご主人がなくなり今は一人で会社を経営している。
沢山の料理が並ぶ
9人の女性が社員で村でとれる米を元にライスミルクのもとになるライスパウダーを出荷している。今は損益トントンで規模を大きくしたいが、ファイナンスがなかなか付かないとのこと。きれいなパッケージの商品を出しているとのこと。ただ規模を広げるには1億円規模の投資が必要とのこと。食事はすばらしくおいしかった。あとでズン君が言っていたのは、女性の起業家はなかなかファイナンスを得にくい。ベトナムでは難しいとのこと。


2017年6月11日日曜日

ディエン・ビエン・フーの旅 その2

2017年6月4日 月曜日

1.朝の散歩
ディエンビエンフーの街
朝5時半頃に起きて市場まで歩く。走る積もりだったが、かなり暑いし、昨日の疲れが抜けていない。結局2キロメートルを歩いたような次第。市場では6時頃だったが、肉売り場を除くとまだ準備中という感じだった。市場は相当の規模だ。
朝の肉売り場 整然としている
ホテルの様子も観測する。今回泊まったのはムオンタンホテルというディエンビエンフーでは一番立派なホテルだ。ホテルの前にタヒチにありそうな椰子の葉で葺いたような屋根を持つ建物とプールがある。ガンさんによるとこの建物はベトナムの伝統建築とは何の関係もないようだ。玄関脇には大きな盆栽がおかれている。盆栽はこの国では非常に人気がある。ラダットの「愛の谷」にも盆栽園があったことを思い出す。 
 市場から帰り、朝食となる。8時半頃に出発ということで、とりあえず家内と二人で7時には食事をとる。朝食はなかなか良い。フォーを作って貰い食べる。そのうちにズン君一家も降りてきて一緒に食事。ナムアイン君が走り回っていたずらをしている。元気な子だ。

2.ベトミン軍の参謀本部

山村の水田
どこに行くのかもよく分からず、車に乗り込み、約40キロの道のり。大変に険しい山道を登っていく。昨日、記念館でベトナム軍は急峻な山を思い軍備や兵糧を人力で運んだと説明し貰ったことを思い出す。ひょっとしてこの大変な山を越えたのかと思いついた。でも不可能だろう。しかし山道を登り切って尾根道を暫くいったところに兵隊たちが大砲を引き上げている大きな記念碑が見えた。
大砲を運ぶ記念碑
この山を登り、そして下ったのである。信じられない。フランス軍がこの山を越えてはベトナム軍が来ないと計算していたというのはその通りだろうと思う。誰がこんな山の、しかも当時は道すらなかったような山を2.5トンもある大砲を人力で運ぶと想像できるだろう。
タイ族の伝統的な高床

 沿道はタイ族の住む場所である。尾根を越えると次第に水田が増える。日本の山村風景によく似ている。段々に耕された水田である。それも次第に広い盆地に出て緑の水田が見事に広がっている。懐かしい景色である。家は高床の家である。

参謀本部の入り口
ジャングルを抜ける道
いよいよ目的地に着いたようだ。ここは当時のベトミン軍の参謀本部だった。入り口には駐車場があり、数台のバスや車が停まっており、十軒ほどの土産や食堂がある。ここから階段を上り、細い道をジャングルのなかに入っていく。巨木が茂る中を道は延々と続く。そのうち茅葺き屋根の小屋が見えてくる。ここは通信将校が働いた場で、地下壕も作られている。
通信将校の勤務場所



通信将校の寝所
美しい水田のある農村風景も途中に見える。やがて大きなディエンビエンフーの参謀本部の石碑がある。ここで皆で記念写真を撮る。
参謀本部の石碑
さらに歩いていくと、やがて少し大きな茅葺き屋根の家がある。これがザップ将軍の居所である。なかは2つの大きな部屋があり、ザップ将軍の有名な写真を撮った場所であろうと思う。家内もここで記念撮影。
ザップ将軍の居室
地下壕
地下壕内部の会議机
ザップ将軍の居所の脇に参謀本部の地下壕入り口がある。これは非常に長いトンネルである。途中、作戦本部であったろう長い会議机(竹製)や通信のためのスペースなどがある。
 長い地下壕を抜けるとそこが担当者の毎日の引継場所となった小屋がある。ここから先はまだあるのかもしれないが、折り返すことにして、またトンネルを帰る。
明るい少数民族の観光客

3.沿道の様子
 トンネルを抜けたところで一休みをしているとたくさんの人たちがにぎやかにやってきた。女性たちは少数民族の服装である。手を振って写真を撮らせてもらう。こうやって撮った写真をあとで眺めるととてもきれいな服である。
皆で売り込み
帰りの道を歩くと道のところどころで観光客を相手に物売りがある。家内が頭に巻く伝統的な布を売っている女性に値段を聞いたら、周りの売り子の女性たちが皆集まってきて、自分のものを買わないかと大変な騒ぎになった。これが写真である。ガンさんも手伝って最終的には適当な値段で買ったようだが、まあにぎやかだった。値段を6万ドンに値切ったという。決して殺気だってはいない、別に誰のが売れようと皆まあそれでよいという感じで終わったのでホッとする。
ウコン
道の脇にあまり見慣れない植物が植えられている。これは何だろうとガンさんに聞くと「ウコン」だという。これがウコンか。初めて見ました。
 家内は古銭を買っている。インドシナ銀行の古い硬貨を売っている。ただ結構偽物もあるようで、家内が買ったものが本物かは分からないが。
 
4.ホーパンコアン湖

 
ディエンビエンフーはこの山の向こう
参謀本部のあとは、ホーパンコアン湖を訪れた。ここはタイ族とコーム族の村の大きな人工湖である。ここではモーターボートに乗って湖の景観を楽しむことが出来た。大きな吊り橋が掛かっており、その向こうからはディエンビエンフーに向かう方向に急峻な山々が広がっている。これをベトミン軍が越えたのである。
大砲を運び上げる兵隊の記念碑
ホーパンコアン湖のあとはまた山を越えてディエンビエンフーに戻る。途中にベトミン軍が大砲を引き上げている様子が彫刻になっている。この山々がベトナムにとっては非常に大事な場所であることを思い出させる。
ワイルドピッグの料理1
ワイルドピッグの料理2

5.ワイルドピッグの夕食
 ホテルに2時頃に戻るとガンさんがホテルで昼食をアレンジしてくれる。この時間はホテル以外はやっていないとのこと。この日はもう疲れたので皆で昼寝をする。夕飯はワイルドピッグの店に行く。ワイルドピッグとはイノシシではなく、ジャングルのなかで飼われた豚のことを言うらしい。自然の餌を食べて育つので健康な肉が食べられるという。いろいろな料理が並ぶ。確かにうまかった。